■学習院の新太郎先生のこと

        高橋新太郎文庫事務局 中川順一
        (のらこみ74号 2004年6月)

 学習院女子大の高橋新太郎先生が1月11日に亡くなった。
 去年夏、末期がんの告知を受けたとき、本人は「あと300日欲しい」と言っていた。「300日あれば、定年最後の卒業生を送り出すこともできるし、やり残した原稿をまとめることもできる」と。だが、それは叶わなかった。
 十数年前、僕は目白の飲み屋で新太郎先生と知り合った。学習院の国文の先生で、秋篠宮のサークルの顧問だと人から教えられた。しかし、本人がそれを口にすることはなかった。いつもジンにレモンを絞って飲んでいた。大学教授であることを威張ることもなく、皇室や著名人との交流を決して自慢しない人だった。どんなに親しくなっても、相手が歳下の若者であっても、必ず「さん」付けで人を呼んだ。30歳近く歳下の僕も、最後まで「中川さん」と呼んでもらっていた。
 髭の、学習院の新太郎先生は、目白界隈の飲み屋では人気者だった。
 僕は目白界隈での新太郎先生しか知らない。学者としてどういう学問的業績があったのか、教師・教育者としてどういう人であったのか、家庭でどういう夫であり父親であったのか、何も知らない。以下は、そういう関係での、僕の知っている新太郎先生のことである。

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 十年前頃までは、週に二、三度は、目白通りのどこかの店で必ず顔を合わせた。夕方から夜、目白通りを、いかにも学校の先生風のショルダーバックを肩に掛け、ときに両手に大きな本屋の袋を下げて、義理のある店を何件か回るのが日課だった。僕は先生が本を読んでいたり、ものを書いている姿を見たことはない。僕が会うのは、いつもその日の最終行程の店らしく、しばらく飲んでいるとカウンターで居眠りをはじめるのが常だった。けれど両手を前において俯いて目を閉じているときは、大抵は狸寝入りだということも常連はみんな知っている。そんな時、誰かがわざと新太郎先生を肴にする。すると、先生は俯いたまま片目を少し開ける。「あっ、やっぱり聞いている」。
 静かな人だったが、ごくたまに、声を荒げることがあった。大抵はつまらないことだった。「宴会の一本締めは、あれは本当の一本締めではない」など。言い出したら、譲らない。だが、人を批難したり攻撃するところを、僕は見たことがない。
 ただ、一度、共通の知り合いが足を切断したとき、気持ちのバランスを失ったその人が「我は異形である」と詩を書いて僕たちに見せたとき、「そういうことを言ってはいけない。そういうふうに考えてはいけない」と激しく叱ったことを覚えている。

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 十二年前、会社を辞めて独立すると先生に伝えると、「僕はしがない教師だから何もしてあげられないけれど、頑張ってくださいね。応援しているから」と先生は言った。「僕は商売のことはわからないけれど、娘はガソリンスタンドの二代目に嫁に行った」とも言っていた。
 新太郎先生は学生時代のバイト生活や貧乏話をすることがあった。けれど、通った学校が50年前の学習院であり、奥様が元華族であることを情報として知っている僕からすると、辻褄が合わないなと感じることもあった。
学習院時代の友人は、新太郎先生が学生時代いろいろなバイトをしていたのは事実だという。そして、バイト料が入るといつも、全部仲間に奢ってしまうのだそうだ。暑い夏、バイトの金でアイスキャンディーを買い込んで来て仲間に配り、「なんか、苦学生みたいでしょ」と悪戯っぽく笑ったことがあったそうだ。僕の知っている新太郎先生にも、確かにそういうところがあった。
 娘が嫁に行ったガソリンスタンドとは、実は日本橋人形町に本社がある燃料商社で、しかも独立後の僕のクライアントだとわかるのは、それから数年後のことだ。新太郎先生が僕の結婚式に出てくれたことで、その偶然のつながりがわかる。苦学生に憧れた新太郎先生にとっては、娘の嫁ぎ先は首都圏や長野で燃料販売と卸をする会社のオーナーの家ではなく、「ガソリンスタンドの二代目」でなくてはならなかったわけだ。
 「二代目」は、園木章夫さんと言う。園木さんとは、クライアントの社長ということよりも、中央大学同窓ということで親しくしてもらっていたが、その偶然により、共通の話題が増えた。以来、新太郎先生の飲み屋での僕への別れの挨拶は、「じぁ中川さん、園木をよろしく」となる。

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 余命が僅かであること知った新太郎先生が、そのことを誰と誰に告げたのかはわからない。
 秋、新太郎先生と園木さんと三人で、先生が指定した早稲田の居酒屋で飲んだ。久しぶりに会った僕は、先生が随分痩せていることに気づいた。女子大から早稲田までは下り坂で、それほど距離はないのだが、歩いてきた先生は少ししんどそうだった。
 男三人。義理の親子の関係と仕事の取引関係と学校の先輩後輩と国文学専攻同士と飲み仲間と…それぞれいろいろ関係がありながら、それでも三人共通の話題が少ないという宴会は、なかなか間が持たない。僕は、先生が親しくしてくれていた僕の友人女性二人を助っ人に呼び、5人で飲み直すことにした。するとさっきとはうって変わり、先生は楽しげに酒を飲んだ。結局、深夜まで飲むことになる。僕と園木さんは、女性たちに先生を任せて引き上げた。
 翌日、園木さんから「どうも、酒と女は男を元気にするものらしい」とメールが来た。新太郎先生は、酒と本と女と猫が好きだったと、僕は断言する。
 僕たちが退散した後、女性たちは先生の病状を本人から聞かされたという。けれど彼女たちは、黙っていた。新太郎先生の周囲には、そういう優しい女性の友人がたくさんいた。
女性に人気があって、しかも男性からも慕われる、高橋新太郎先生はそういう人だった。僕はそれが、いつも少し羨ましかった。
 学校関係ばかりでなく、さまざまな研究や趣味の会、いくつかの飲み屋の常連の会など、さまざまな集まりで先生は、重要なメンバーだった。人が良い、付き合いが良い、ということだけでなく、「興味」が広範多岐であり、何よりも人に関心があるのだと僕は感じていた。でもそれを「批評」したりすることはなかった。どれだけの会に顔を出していたのか、僕にはわからないし、その全部を知る人は本人以外にいないだろう。
 去年の暮れ、先生はそういう会のたくさんの忘年会に顔を出していた。忘年会まわりは毎年恒例のことだが、去年の暮れは、本人にとっていつもとは違う作業だったに違いない。もう食事もあまり進まない状態だったのに、ふらりとひとり、目白の鮨屋に現れたという話も、後から聞いた。「律儀」であることは、先生が好んだ人物像のひとつだったことを思い出す。

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 1月、先生は正月から寝込み、学習院女子大の隣の国立医療センターに入院する。もう時間の問題と告げられていた1月10日、僕は園木さんと学習院女子大に出向いた。
 その死が新聞に掲載されるであろう人物の葬儀の準備や、大学と自宅とにある膨大な書籍や文献の整理を、娘の夫である園木さんがしなければならない。その手伝いをすることが、新太郎先生から「園木をよろしく」と言われていた僕の、この日からの「仕事」になる。
 先生と親しくさせていただいた十数年の間には、共通の親しい友人の不幸の席に共に出向くことも幾度かあった。こういうとき、何かにつけて余計なお節介で立ち働く僕と、静かに酒を飲む先生とは、いつもその席の最後の時間までいた。悲しくて仕方ない席なのに、「段取り」にこだわる自分に自己嫌悪しているとき、先生は「中川さん、ご苦労さん」と声をかけてくれた。その人の葬儀の「段取り」を手伝うことになるという創造力は、僕にはなかった。
 僕は目白界隈での新太郎先生しか知らない。学者としてどういう学問的業績があったのか、それは国文学研究者や出版社の人が語るだろう。教師・教育者としてどういう人であったのか、それは秋篠宮に聞いてくれ。家庭でどんな人だったかなんて、わからなくていい。僕の知っているのは、目白界隈での新太郎先生だけである。
 学習院女子大からの帰り道、早稲田駅に向かう坂道を下る僕たちを、女子大生たちが追い越して行く。ああいう若い女の子達に、毎日囲まれていた新太郎先生の姿を、僕は知らない。
 「だったら、いつももう少し若々しくしていれば良かったのにね」と、義父の外での姿を知ることがなかった園木さんは言う。
 僕は思ったままを口にした。
 「いえ、それが新太郎先生の手口なんですよ」。
 女子大生の後姿を見ながら僕は、新太郎先生が俯いたまま片目を少し開けることを、期待していた。

※のらこみでは、新太郎先生の蔵書と研究の整理をはじめました。 http://www.noracomi.co.jp/tsb/tsb01.html